悪魔の料理番 ~逆説パラドックス~ 禁断の魔女レシピ

あなたの常識を覆す、暗黒エネルギーの新常識! 悪魔の料理番として命をささげた料理人はりぃが、 世の中に出回るありきたりな教えや道徳的な成功法則を破り、真のダークサイドへと導きます。 しかしその道の先は、地獄ではなく天国であった、、、

無から有を創る 世にも奇妙な日本料理の世界

世界に認められる日本人の精神性こそが、最も崇高で悟りに近く、素晴らしいと唱える人がいる中、
実は真逆の、悟りの境地とは程遠い概念を含んでいるのが日本料理です。
 
そんな言い方すると、私は日本料理界の大御所に抹殺され、2ちゃんとかで炎上されそうですが、
私も悪魔の料理番としてのほこり(!?)を持って、この議題について語ろうと思います。
 
ただ、これからお話することは、「決して日本料理を非難しているのではない」ということはご理解ください。

★“有”が“正しい”日本料理

 
「物事を正しいか間違っているのかを決めたがるのが、人間の最も大きな欠点だ」と悪魔は言います。
 
さらに
「神様という言葉があるから、私のような悪魔もいるんだ」とよく愚痴っています。

それはさておき、
何事も区別・差別しない、調和の取れている状態(難しい言い方で中庸)が悟りの境地だと言う人もいますが、
こと日本料理に関しては、その中間を取らずに、
 
  • 吉か凶か
  • 山か川か
  • 天か地か
このような両極端の位置づけを料理に影響させることをめちゃくちゃ好みます。
 
おそらく、フランス・イタリア・中国料理などなど世界にさまざまなジャンルの料理がある中でも、群を抜いて、区別をしたがるのが日本料理です。

ここで一つ、私が昔驚いた事例を挙げましょう。

何を隠そう、今は悪魔の料理番をしていますが、もともと私は日本料理出身なのです。
 
修業当時、ある献立の中に、
『有りの実』
という言葉がありました。
 
懐石料理の献立の中でも、その『有りの実』はコースの最後に書かれていました。
私は「『ありのみ』ってなんだ?聞いたことのない食材だな」と思い、
当時の副料理長に尋ねました。

「あの~、メニューに『ありのみ』ってありますが、うちでこんな食材扱ってましたっけ?」
 
すると、
副料理長「『ありのみ』はおまえ、今の時期毎日触ってるやんか、これや!」
と言って、取り出したのがなんと、、、

『梨(なし)』

でした。

「???」
「え?これ梨ですよね?なんで“有りの実”なんですか?」
と聞くと、
 
副料理長「おまえ、“無し”って縁起わるいやろ、お金が無し、友達も無し、偉くも無し、など、無しって言葉は色々良くない連想をさせる代名詞だ。だから梨(なし)は何も無いの“無し”をお客さんに連想させるから、
梨(無し)という言葉は使わずに、その逆の“有り”という言葉を使って、梨自体を“実(み)”と“見立て”て『有りの実(ありのみ)』と言うんだよ」

「かなり強引なこじつけですね」
 
ごつん!!(げんこつで殴られた音)
副料理長「余計なことは考えるな、これが日本料理や!」

、、、
そんなやりとりを思い出しました。
 

この梨=有りの実事件は、かなりインパクトがあったのですが、日本料理にはその他にも真逆の意味を使うことが多々あるのです。
 
「日本料理=“二本”料理。2本だから日本料理か」というようなしょうもないダジャレも発明しつつ、
「あながちそんなのも間違ってはいないのかな」と思いながら仕事をしていたのを覚えています。
 

他の例を挙げると、
慶事と弔事(結婚式や顔合わせと葬式や法事)では、料理内容もさることながら、
懐紙(かいし)と呼ばれる、天ぷらの下に敷く時の紙の折り目方向も変わってきます。

料理はお祝い事なら紅白が基準で、見た目も華やかですが、
法事とかネガティブ系なら白黒が基準で、
言い方悪いですが、見た目質素で、あまりおいしく見えません。

でもそれは不味そうに見せているのではなく、お客さんの気分に合わせて、“わざと”そのように作っているのです。
 
葬式なのに、めっちゃ豪華で美味しそうな華やかな料理が出てきたら、日本人なら「え、、!?」と思いますよね。
 
まあ、悪魔にはその感覚は理解してもらえませんでしたが、気持ちが沈んでいるイベントという言い方も変ですが、
そういう時に、気持ちを盛り上げる華やかな料理を作っても逆効果なので、その場その場の気持ちに寄りそうような料理を提供するというのが日本料理の心得なのです。

そうなると、もちろん盛り付ける器も変わってきます。鶴とか亀とか間違いなく弔事は禁止です。
そんなもの出そうものなら、
「人が死んでいるのに、お前らは喜んでいるのか?こんちくしょー!!」とキレだします。そんなお客さんの心理を読み取らなければならないのが日本料理です。

また、さきほどは、有り無しの例を挙げましたが、
料理の作る工程でも、野菜の頭とおしり(茎がついていた方と先っぽの方)のことを
天と地と呼んだりしますし、
山水盛りと言って、山と水(川や海)を両方表現するお造り(お刺身)の盛り付け方法もあります。この場合は奥側を高く盛り付け、手前を低く盛り付けます。
 
また今出てきた、お刺身の『刺す』という言葉は、良い連想をしないので『作る』と呼びますし、他にもありとあらゆる場面で両極端の事例を一つの料理に盛り込むことがあります。

それを思うと、日本料理が“和”食と呼ばれるのもあながち納得できると感じます。
 
それもそのはず、二本(日本)の両極端の意味合いを持つものどうしを“和(一つに融合)”するという意味にも捉えられるからです。
 
でも考えれば考えるほど日本料理(和食)の精神性は奥が深いです。